【セルフ・イメージと中島敦「幸福」】
中島敦の「幸福」（『ちくま日本文学全集 中島敦』所収）という短編小説があります。
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これはインドネシアのある島（パラオ地方）で一番貧乏な男と一番裕福な長老の物語です。
極めて哀れな男がいた。余り若くなく、醜い容貌で、島民からは顰笑の的となっていた。恐らく、島一番の貧乏人であったろう。そのため、妻もいない。また健康も害し、空咳（からぜき）をし、疲れる体質となっていた。島の第一長老（ルバック）の家の物置小舎の片隅に住み、最も卑しい召使として仕えている。家中のあらゆる卑しい勤めが、此の男一人の上に負わされる。怠け者の揃った此の島の中で、此の男一人は怠ける暇が無く、朝から晩まで働きづめに働いた。
一方、彼の主人・島の第一長老（ルバック）はパラオ地方屈指のお金持ちだった。島の芋田の半分、椰子林の三分の二は此の男のものだった。美食家で案の定、彼の腹は脂ぎってふくらんでいた。威厳に満ちた長老は表向きは妻が一人だが、実際には無数と言っていいほどの女性と関係を結んでいた。
此の大権力者の下僕たる・哀れな醜い独り者は、身分が卑しいので、長老（ルバック）は固（もと）より、前を通る時でも、立って歩くことは許されなかった。必ず匍匐膝行（ほふくしっこう）して過ぎなければならないのである。カヌーに乗って海に出ている時に長老の舟が近付こうものなら、カヌーの上から水中に跳び込まねばならぬ。舟の上から挨拶する如き無礼は絶対に許されない。
哀れな下男は、しかし、大変賢い人間だったので、自分の運命を格別辛いとは思わなかった。主人がとても苛刻であっても、尚、自分に、視ることや聴くことや呼吸すること迄禁じないから有難いと思っていた。自分に課せられる仕事が如何に多くとも、なお婦人の神聖な天職たる芋田（ムセイ）耕作だけは除外されていることを有難く思おうと考えた。鱶のいる海に跳び込んで足の指三本を失ったことは不幸のようだが、それでも脚全体を喰切られなかったことを感謝しよう。空咳（からぜき）の出る疲れ病に罹（かか）ったことも、疲れ病と同時に男の病に迄罹る人間もあることを思えば、少くとも一つの病だけは免れたことになる。自分の頭髪が乾いた海藻の様に縮れていないことは明らかに容貌上の致命的欠陥には違いないが、荒れ果てた赭土丘（アケズ）の様に全然頭髪の無い人間だって俺は知っている。自分の鼻が踏みつけられたバナナ畑の蛙（かえる）のように潰れていないことも甚だ恥ずかしいことは確かだが、しかし、全然鼻のなくなった腐れ病の男も隣の島には二人もいるのだ。
だが、足るを知る男でも、やはり、病が酷いよりも軽い方がいいし、真昼の太陽の直射の下でこき使われるよりも木蔭で午睡（ひるね）をした方が快い。哀れな賢い男も、時には、神々に祈ることがあった。病の苦しみか労働の苦しみか、どちらかを今少し減じ給え。もし此の願が余りに慾張り過ぎていないなら、何卒、と。
この下男、ある夜、夢で長老となり、美食に美人の妻、夢では実際の長老が下男となり、使役する。この同じ夢が一晩ではなく、次の晩も、次の次の晩も、それから毎晩続いて、哀れな下僕は夢の中で長老になっっていたのです。彼の長老ぶりは次第に板について来ました。御馳走を見ても、もう初めの頃のように浅間しくガツガツするようなことは無い。その結果、夢から醒めた現実でもだんだんと健康となり、肥え太り、顔色がよくなり、自信に溢れ、生き生きと若返っていった。
昼間の劇（はげ）しい労働も苛酷な待遇も最早彼に嘆声を洩らさせることはない。賢い諦めの言葉を自らに言って聞かせる必要もなくなった。夜の楽しさを思えば、昼間の辛労の如き、ものの数ではなかったからである。一日の辛い仕事に疲れ果てても、彼は世にも嬉しげな微笑を浮べつつ、栄燿栄華（えいようえいが）の夢を見るために、柱の折れかかった汚ない寝床へと急ぐのであった。そういえば、夢の中で摂（と）る美食の所為（せい）であろうか、彼は近頃めっきり肥（ふと）ってきた。顔色もすっかり良くなり、空咳も何時かしなくなった。見るからに生き生きと若返ったのである。
他方、現実の長老は逆に惨めな貧しい下男となる夢を見るようになった。そして現実の下僕がするような過酷な労働を毎晩することとなった。それが続いた結果、体は痩せ衰え、貧相になっていった。
三ヶ月もすると実際の長老はみじめに衰えて、いやな空咳までするようになった。
ついに、長老が腹を立てて夢の中で長老になっている下僕を呼びつけた。夢の中で虐待する憎むべき男を思いきり罰してやろうと決心したのです。
ところが目の前に現われた下僕は威風堂々として、とても叱責できるような雰囲気ではなかった。
そこでお互いに毎晩見ている夢のことを正直に話し合った、、、という話です。
下僕は、夢が昼の世界よりも一層現実であることを既に確信している様子がわかり、長老はアアと心からの溜息をつきながら、貧しく賢い下僕の顔を羨ましげに眺めた。
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私たちのセルフ・イメージはやがて現実を変えていく力があることを暗示している話ですね。
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です。
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